玄米は自然から与えられた“宝物”である
玄米は太古の“スーパーフード”
大陸から日本にイネが伝来したのは、今からおよそ二千数百年前のこと。それまでの人々の食生活は、木の実を主食として、貝や魚などをおかずにしていた。生きるための食べ物を探し、手に入れることに、毎日苦労していたと思われる。
ところがイネは、種籾を蒔いて水をやれば、花を咲かせて実をつける。しかもその実は、うまく管理すれば何年も保存が可能。当時の人々にとってイネはまさに“スーパーフード”だったわけである。
そのころの王や王族たちが、たくさん存在した「くに」をまとめおさめることができたのは、多くの人がかかわることで、多くの食料をつくり出せる「稲作」があったからこそ、人々をとりまとめることができたのであろう。
こうして玄米は、何千年もの時代を越えて、人々の生活を支え続けてきた。特に中国や日本においては、玄米は自然から与えられた贈り物として、収穫した時そのままの姿で大切に食していたのである。
昔の人は栄養学の知識はなかったが、玄米食が栄養学的にも優れていることを経験的に知っていた。
日本においては、玄米は神様からの贈り物、尊い食べ物であると考えられ、米の豊作を願い、神様に祈りを捧げていた。
日本人は大昔から玄米を食べ続けてきたわけだが、おかずはごく少量で玄米だけで生活していたといっても過言ではない。
ところが時代が流れて徳川の世となり、江戸を中心した政治によって平和が訪れると、生活が少しずつ贅沢に“豪華”になり、食生活においてもより美味しいものを求めるようになっていったのである。
玄米を精白して食べるようになったのは、江戸時代初期のころからであり、慶安年間(1648~1652年)に江戸城の大奥で最初に食されたと言われている。最初に白米を口にしたのは、おそらく、身分の高い女性であったことだろう。白米は当時「姫米」と呼ばれていたそうだ。
白米は、大奥から裕福な層へ、そして庶民へと少しずつ広がっていった。米を碾くのは身分の低い者の仕事であったため、多くの人に伝わりやすく、江戸中に浸透していったと考えられている。
白米を食することが日常となった頃、江戸の人々を苦しめたのが「脚気」である。脚気はビタミンB1が欠乏することによって生じる。
玄米にあり、白米にないものは?
米、麦、粟、稗、黍、とうもろこし、さとうきび、竹、笹など、イネ科の植物に多くの種類があるが、中でも玄米は、作物としては「稲」、食材としては「米」、
メニューとしては「ご飯」と、呼び方が細かく分けられていることからも、日本人の生活にもっとも浸透し、大切にされていることがわかる。
日本人は玄米を主食としてきた。おかずは、ほとんどない。玄米は、ビタミンB1、B2、B6、E,K、パントテン酸、イノシトール、ミネラル、リノール酸やリノレン酸、食物繊維、
酵素など栄養素を豊富に含んだ「完全食」なので、それだけで充分だったのだ。
これらの栄養素のうち66パーセントが胚芽に、29パーセントが表皮に存在する。つまり「糠」にほとんどの栄養素が含まれており、それを取り除いた白米には5パーセントしか残らない。
白米という2文字を偏と旁に並べると「粕」になる。一方「糠」という文字を偏と旁に分解してみると「健康な米」になる。